9月の修復的対話講座を受講した受講生のご感想をシェアします。学生という立場から感じた、思い溢れるご感想です。
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皆さまと過ごした時間はとても濃密な時間で、とても貴いものでした。研修中にも申し上げた通り、私は人見知りで話すことも苦手です。そんな中で皆さまが私のことを温かく受け入れてくださり、居心地の良い時間を過ごすことが出来ました。本当にありがとうございました。帰り道に目が潤んでいたのは花粉によるものですが、本当に別れが名残惜しかったです。
これまでキーパーとして子どもたちとサークルを行うことはありましたが、初めて会う方もいらっしゃる中で、自分もメンバーの一員として、自分を開示しながら話すという機会は初めてでした。その意味では、サークルの「関係構築」という理念を肌で感じられた、貴重な機会になりました。そして非常に気持ちが解放され、安らぎに包まれるような時間でした。これまでの人生でなかなか得られなかった感覚で、言葉で表現するのが難しいのですが。
ご飯の時間などでも、たくさん皆さまのお話をお聞きできましたが、サークルを実施してみて初めて知ることや話すことがたくさんありました。プライベートな話を共有できたことや、定年後はテーマパークのスタッフになりたいという私の将来の夢に気づけたことが、特に印象に残っています。
そして、ロールプレイングのデビューを果たし、自分が意外と入り込むタイプなのだと知りました。コンファレンスは初めての経験だったので、割と緊張もしていたのですが、あの場を皆さまと作れたからこそ、生き生きと話せたのだと思います。
帰りの電車で振り返ってみて、凡庸な比喩で恐縮ですが、修復的対話はマットのようなものだと思いました。私は体育の時間が嫌いで、跳び箱や平均台も好きではなかったのですが、マットの存在が安心感を与えてくれたことを覚えています。
跳び箱や平均台が好きな人も嫌いな人も、マットが安全を確保してくれる。話すことが好きでも嫌いでも、修復的対話の経験が、そこで培ったコミュニティが、心の中で安心感を担保してくれる。そんなイメージが湧きました。
近年は「危ないから」と平均台を撤去し、子どもたちが平均台を渡る経験自体を取り除く、そのような風潮があるのではないかと危惧しています。衝突するなら話さなければいい。あの人は自分とは違うと線を引く。社会がそんな空気なら、子どもたちはそこから学んでしまいます。
分かりやすい結論を急ぎすぎている感のある現代社会で、先住民たちの実践から始まり、壮大な世界観を持つRJが果たす意味は大きいと考えます。結論が無いことや宙ぶらりんでいることを「そのままでいい」と受け入れてくれる風土を、RJで耕せていけたらと思います。
私自身も二年以上にわたるコロナ禍で、元々の内向的な性格を加速させ、新しい人との接触を避けていたと思います。今回の研修への参加も大丈夫かと心配でしたが、結果的には大成功でした。二泊三日の自然の中での皆さまとの時間は、画面と向き合い続けていた自分にとっても癒しになりました。そして、人と人とが出会い関係を作っていくことのきらめきを思い出せたような気がします。研究や修論のためだけではなく、一人の人間としても学びを得られました。