瀕死状態で水辺に浮かんだ私は・・・

7月に修復的対話講座を受講された方のご感想です。
「瀕死状態で水辺に浮かんだ私は、英三郎さんの広く大きい温かな手で救い上げられた。『RJ修復的対話』はそんな出会いだった。」
感謝してご紹介します。
*************
『赦し』の持つチカラ-『不寛容』な海をサバイブして
7月16日〜18日
念願だったコスモス村主催『RJ修復的対話』の研修に参加してきた。
まだ小さい息子を連れた私が、研修に参加するには不安がたくさんあったけれど、コスモス村の全面協力もあって、願いが叶う形になった。
過去、こんなに集中をしたことがあったのだろうか、というくらい講義を夢中で聞いた。
感性豊かな参加者の意見を聞いていると、そんな視点があったのか…!と視野が草原のように開かれていく感覚があった。
山下家との出会いは、かれこれもう20年前に遡る…
中学生だった私は、山下家の奥さまが我が家にたまたま投函した『Mrs.Yamashitaの部屋』という一枚のチラシに導かれ、山下家に入り浸りになる。
英語教室という名目ではあったが、英語を習った記憶はなく、朝からおしゃべりを開始し、お昼ご飯を食べ、おやつを食べ、夕飯まで食べていくくらいには入り浸りだった。
そのご主人である山下英三郎さんは非常に寡黙な人で、夕飯の帰宅の際に私の顔を見ても「また来てるのか。」という程度で、特に何かをとがめる様子もなく、一緒にご飯を食べていた。
距離が縮まったのは、英三郎さん主催でモンゴルのストリートチルドレンを支援するため、現地に同行した際、おやつの松の実を一緒に食べ始めたことから、ぐっと仲良くなった。「モンゴルに行かない?」とざっくりした誘いに乗った友人のあかりと、『松の実友達』になった私たちは、一緒に映画を見たり、エスニック風チャーハンを作ってみたり、お泊まり会をしたりと、いろんな時間を共有した。巷では、英三郎さんは有名な人らしかったが、私の中ではおじさんはおじさんだった。
そして、中学高校と、テストも校則もない、埼玉の山奥にある学校ですくすくと育った私。
『ゆとり教育』が話題になった時代に、一流のゆとり教育が実践されているこの学校で、『ゆとりエキスパート』として立派に成長を遂げた。
「社会に出たら、こんな風にはいかないよ!」周りの大人たちからはよくそんなことを言われていた。
ひょんなことから看護師を目指すことになった私は、戦々恐々と『社会』に飛び込むことになった。
ゆとりエキスパートの私が飛び込んだ『社会』というやつは、『不寛容』が大鍋でグツグツ煮込まれ、ジャムになったような世界だった。
細かい規則や厳しい上下関係があり、不都合なことを口にすれば叩かれて、しまいに潰されてしまうような世界だった。
同期としてはいった約1/3くらいの人は、新人のうちに芽を摘まれ辞めてしまうが、飄々と振る舞うことで自分にかかるダメージを最小限にし、なんとか生き残ってきた。いじめられることはごまんとあった。
精神科看護師として働く中で、『社会』の中で気を病んでいく人たちの言葉ならない声に耳を傾けていると、「わかる。」と思うことばかりだった。
『社会』の目は細かく、隙間がない、余白のない世界だ。
この『不寛容』に満ちたジャムの海をサバイブしていていく中で、私はもうほとんど息ができなくなっていた。
瀕死状態で水辺に浮かんだ私は、英三郎さんの広く大きい温かな手で救い上げられた。『RJ修復的対話』はそんな出会いだった。
講義の中では、真新しいものはなく、あたりまえにそこに存在していたものを、見つめなおす。そんな内容だった。英三郎さんの言葉の一つ一つには、確固たる信念や自信に満ちていて、胸の奥にずっしりとした何かが落ちていく感覚があった。
この講義を受けていく中で、私はなんとも言えない『癒し』を感じていた。なぜこんなに癒されているんだろう…とぼんやり思いながら、空間に漂う『安心感』に気がついた。それぞれの言葉に、それぞれが耳を傾けている。
批判されることなく、かといって、評価もされず。
それがなんとも言えない『安心感』を生み出していた。
『RJ修復的対話』は、『対話』すること自体がかなり困難になりつつあるこの時代に、風穴をあける希望の技法だ。単なる小手先の技術ではなくて、先人たちの知恵や想いがそこには詰まっている。その想いのベースには『赦し』がある。
忘れてしまった心を思い出すようなそんな時間だった。真っ白な髭を生やした英三郎さんは伝承者のようだった。
朝食には英三郎さん自家製のジャムが何種類も並ぶ。
甘かったりほろ苦かったり、どれもこれも絶品だった。特に私は桃ジャムがお気に入りで、身体が震えるくらい美味しかった。甘くて身体に染み渡る。
『社会』てやつも、これくらい美味しかったら、喜んで泳げるのに、と思う。
東京に戻った私は、いつもより少しだけ背筋を伸ばして歩く。ずっと心細かった胸の奥に、ふっくらとした何かが詰まった。