SSWにたどりつくまでのわが迷走人生

~『いつまでもツッパレ!子どもたち』(徳間書店1989年山下英三郎)より一部抜粋~

(写真は本人が撮影したものです)


私こそ<立派>な社会不適応歴を持つ人間

 私は、学校生活に適応することに苦痛や困難を覚える子どもたちや、その家族たちと日々接触をしながら生活をしている。子どもたちの生活の場である家庭を訪問することを、活動の主要部分としている。

 学校生活に適応することが難しい子どもたちと関わることは、彼(彼女)たちを、そこに適応させるように働きかける活動だと受けとられることが多い。人に仕事の内容を説明する機会に、相手から「で、山下さんは、これまで何人の非行少年を立ち直らせましたか?」などと尋ねられることがある。登校拒否という不登校状態にあるに子どもたちについては、私が何人学校に復帰させたかという質問が、同じ観点から発せられることも多い。

 質問をする人は、私が具体的な数字やパーセントを示して返答をすることを期待するであろうし、その数字によって、私の目指しているスクールソーシャルワークの有効性を評価するだろう。ことに、学校を休んでいる子どもが学校へ行くようになるということは、はた目には結果が明瞭で、格好の評価基準となり得る。

 世の中何事につけ、数字という具体的に測定可能な手段によって、物事の成果が判断される。人間の頭脳や性格、価値なども数値によって評価がなされるような時代である。数値に置き換えられない領域は、無視され切り捨てられていくだけだ。

 したがって、私の活動も数値によって計測できる部分が他者の関心の対象となる傾向がある。しかし、私は、数値によって表すことのできない部分の重要さを大切にしたい。曖昧さとか、いい加減さを置き去りにした世界は、コンピューターですべてを処理することのできる、味気ないものとなってしまうだけである。

 援助活動において、数値化された結果を重視することは、結果に至るプロセスが軽視される可能性がある。良いとされる結果を得るために、全てのアプローチが構想されることになるだろう。

 例えば、欠席を続ける子どもに対しては、泣き叫ぶ子どもを学校へ引きずっていくという方法も、有効な手段とされることもある。また、非行を繰り返さないためには、懲罰的行為によって子どもを徹底的に痛めつければ、その子どもは問題行動を抑制できるかもしれない。そして挙げ句の果てには、子どもたちの思いや叫びが闇の中に葬り去られる事になってしまうだろう。

 私には人を立ち直らせたり、規制の枠の中に押し込み、適応化を強いる事はできないことである。そんな資格がないのである。

 私は、自分自身が社会的な不適応状態を保ちながら、頼りない足取りで自分の生き方を模索しながら生きてきた。その模索のプロセスを経て現在の職業にたどり着いた。40歳になってから自分の仕事に出会ったという、立派な社会不適応歴を持つ人間である。

 不適応状態を繰り返しつつ生きてきた、私は適応しないことを、頭からまずいことだと決めつける考え方を獲得してこなかった。一般社会に適応しなければ、それなりの生き方を見つけ出せばいいのだと思っている。そんな風に考えている人間が、子どもたちを適応させようなどと努めることなど、無理な話なのだ。

 私は大所高所から、子どもたちに人の生きるべき道を説く情熱を持ち合わせていない。自分が歩んできた道をふり返ると、まったく節操がないのだから、私がいくら高理高論を弁じたところで空しく、他者の心には触れることができないだろう。

 私にできることといえば、子どもたちに寄り添って、彼(彼女)らと共に歩み続けることぐらいである。その覚悟だけは、しっかりと持っているつもりだ。子どもたちの置かれている状況を見ると、立ち直るように指導したり、教育をする大人よりも、彼(彼女)たちを見捨てる事無く、一緒に歩んでくれる大人がそばにいるだけで充分なのじゃないかと思っている。

 私は、人前でスクールソーシャルワークについて話をする機会が多い。そのたびにスクールソーシャルワークに対する共感を得ているという実感もある。だが、私の話で一番受けるのは、自分の経歴についての話である。肝心のスクールソーシャルワークの部分が希薄になるといけないので、あまり自分のことについては語らないようにしているのだが、それでも、現在の自分の活動について語る時に、少しは触れないではいられないことがある。自分が歩んできた道を語ることによって、活動における視点をよく理解してもらえるという利点もある。

 私の迷走人生を綴り、私の行動の背景にあるもろもろのことどもをふり返ってみることも、意味があると思うので、多少長くなるがお付き合い願うことにしよう。

 

大学卒業―就職まではただ流されるだけの日々だった

 私は1946年(昭和21年)3月に長崎市で生まれた。46年というと、第二次大戦が終わった翌年である。終戦の翌年3月に長崎で生まれたと言うことは、原爆が投下されて7ヶ月後のことだ。その事実は、私の生き方に少なからぬ影響を及ぼしている。

 放射能の洗礼を受けることによって、母の胎内にいるときから、私の迷走人生は約束されていたようなものである。

 40年以上も生きてしまった今は、放射能の影響におびえることもなくなってきたが、以前は、身体の不調を感じるたびに放射能の影響を恐れたものだ。現在でも、私は人体実験の過程にあると思っており、放射能の影響がまったくなくなってしまっているとは考えてはいない。それは、いまだに広島や、長崎では原爆の影響によって死亡したと見なされる人たちが何人もいるからである。

 ただし、今はおびえてはいない。冷静に自分への影響を観察しているといってよい。私が癌か何か原因不明の病に倒れたら、放射能の影響を疑ってみてもいいのではないかと考えている。

 被爆後30年を境に、父と叔父、叔母が死んだ。いずれの死も放射能の影響と直接に結びつけることはできないが、それはあまりにも早い死であったし、死が短い期間に相次いだことも、不可解なことである。私は、原爆の被爆体験との因果関係を疑っている。

 放射能が人体に影響を及ぼすことは自明の事であるが、行動パターンに影響があるかどうかは私も疑問視している。いままでのところ、私の場合は例外的に身体よりも思考経路というか、行動パターンに影響が出ているのかもしれない。

 放射能の影響とは無縁なのだが、私の小学校時代は、精神的にはあまり恵まれていたとはいえない。多くの人は子ども時代を懐かしみ、できたらもう一度あの頃に戻りたいなどという。しかし、私は子ども時代に戻りたいと思ったことはない。

 私は、見知らぬ人からさえ「デブ!」と通りすがりに声をかけられるほど太っていたので、そのことで悲しい思いをすることが多かった。風呂の中で自分のせり出した腹を見つめて、ため息を漏らすこともあった。

 運動会のかけっこではいつもビリの方だったし、唄を歌うと音程がずれて音痴だといわれたし、左利きで何をやらせても不器用、字を書くのは下手、と他の子どもと比べて何も取り柄がないという感じだった。小学校時代はコンプレックスのかたまりで、自分が生まれてきたことを呪ったほどである。そのうえに家庭内にはトラブルが絶えず、自分が安住する場所を見つけられないという状態だった。

 おまけに両親が農業をしていたので、そのこともコンプレックスの大きな原因となっていた。学校に提出する調査書の両親の職業欄に、農業と記入することがとてもいやだった。長崎市の中心街ではなかったが、農業従事者の子どもはクラスに一人か二人しかいなかった。農業は汚い仕事だという思い込みが私には強くあった

 私の父は、私が嫌悪していた畑作業を毎日やらせた。帰宅してから、4時までは遊ばせてもらえなかった。それも、ひとりぼっちで草むしりなどの作業をするのである。そのために、私の手はいつも荒れていた。

 3,4年の時の女性教師は、私のひび割れた手を取って、もっと手をきれいに洗うようにといったものである、洗っても洗っても、手の荒れは治らなかったのだ。だから、そのことを言われる度に、私の心は傷つき悲しみにとらわれるのだった。親の職業を、私は嫌いになるばかりであった。

 コンプレックスの集積のせいで、生きていても何もいいことがないと、諦めに似た気持ちで過ごし、死にたいと言うことを、もっとも切実に考えていたのは小学校時代の事だった。親に叱られて納屋に逃げ込んだ時など、泣きながらどうやって死ぬのが一番楽か、幼稚な考えを巡らすようなことさえもあった。なんともネクラな子ども時代であった。

 それでも中学から高校時代にかけては、いろんな面でかなりコンプレクスを解消する方向に向かった。身長が伸びるにつれて、横に広がっていた体格は、がっしりしたものになったし、走るのも遅すぎることはなくなった。

 何よりも知らず知らずのうちに、学力が伸びていったということが、自分に少し自信を持たせることにつながたようである。だが、なぜ学力が上昇を続けたのか、今でも私にはわからない。特に勉強をしたわけでもなかったのに、3年間のうちに成績は上がる一方だった。鈍重でぼーっとした子どもが、中3の時にはクラスの中心的な存在になるほどの変わりようであった。

 高校は県下でも進学校としては、当時トップの高校へ入学した。両親も中学校に入学した時点では、私がその高校へん遊学するようになるなどとは、予期だにしなかったことである。

高校ではラグビー部に入り、毎日練習に明け暮れた。学校生活そのものは楽しく、好きになった女の子に交際を申込むなどいというようなこともあった。しかし、家庭のほうは両親の関係が最悪の状態になり、胸を塞ぐことが多く、何度もやけっぱちになってグレてやろうと思い、思いとどまるという状態を繰り返していた。

 家族から逃れることばかりを考え、大学へ行くことも、合法的な家出だと思い、東京の大学へ通うことを決めた。家族、特に父親に対する憎しみに悶々として毎日を過ごし、ラクビーは3年生まで続け、ということで受験勉強に身が入らず、最初の年は受験に失敗した。そして、予備校の段階から、もっともらしい理由をつけて首尾良く上京し、合法的な家出は成功した。

 大学には1年後入学した。大学に入ってからはクラブ活動に熱中し、学生としてはまったく怠惰な四年間を過ごした。卒業までの出席率は、たぶん30%に満たないのではなかろうか。それでも卒業できるのだから、日本の大学は甘いといわれても仕方が無いと言えよう。

 元来は生真面目な性格である私は、大学入試直後は法律を勉強して、その分野で生活をしていこうと考えていた。だが、その夢はマスプロ教育方式に直面することで萎えてしまい、それに引き続く60年代後半の大学紛争の嵐のなかで完全に消滅してしまった。

 勉強しなかったから無駄な時を過ごしたかというと、そうともいえず、怠惰な時を過ごし、その中で感じ考えたことは、その後の生き方に大きな影響を与えたのだから、自分にとっては、大学に行ったことは有意義だったと考えている。

 いままで、私の迷走人生に付き合ってくれている妻と出会ったことだけをとってみても、大学へ行ったということは無駄ではなかったのかもしれない。

 1965年に入学し69年に卒業したのだから、全共闘運動と呼ばれる運動の渦中に学生時代を過ごしたことになる。運動が与えたインパクトは非常に大きく、その衝撃の強さが、その後の私の生き方に影響し続けてきたように思う。

 私は、運動自体には加わることもなくノンポリと呼ばれる類いの存在だったが、無関心派であっただけに、逆に余波を長期にわたって浴び続けてきたとも言えるような気がする。つまり、自分はやるべきことをやらなかったという負い目である。その負い目を拭うために、運動自体が衰退してから遅まきながら、自己変革に向けて私のエンジンが始動したのである。

 大学を卒業する時点では、私はとりあえず、サラリーマンになることしか頭に描くことができなかった。そうすることにみじんも夢や希望を抱くことはできなかったが、他にどうすればいいかわからなかった。だから、真剣に職探しを考えなかった。どこでもいいから、早く決めさえすればいいと思い、中堅の鉄鋼専門の商社に入った。

 サラリーマンとして要求されること=会社の利益を上げることと、自分が学生時代に考えていたことの落差は非常に大きく、私にはその落差を埋め合わせる作業をするほどの器用さを持ち合わせていなかった。

 月に最低100時間を越える残業をしなければ、一人前とは見なされないような風潮は耐えがたかった。会社でも私は大学時代と同じように、ぐうたら人間になり、必要最低限の営業成績をあげると、あとは喫茶店や映画館などで時間をつぶした。気力が消失していくばかりの日々を送った。

 そんな生活を長く続ければ、私自身にとってはいい影響があろうはずがなかったし、会社にとっても迷惑な存在になるだけだった。私は悪循環を断ち切るために、勤めを辞めることを決心した。入社して半年後のことである。時代的な影響によるのか、会社の体質がそうさせたのかわからないが、同じ年に入社した同僚の半数以上が2年以内に、私と同じようにその会社を去って行った。

 半年のサラリーマン生活をしていた頃のことを思い出すと、情けなくなるほど生気の無い表情が浮かんでくる。ただ、一緒に入社した仲間たちとは気が合って、あちこちと遊び回ったし、今でも家族ぐるみで付き合いをしている者たちもいる、だから、私を雇った会社には申し訳ないことだが、サラリーマン生活もまったく無駄だったとは思っていない。

 

家族持ちながら写真家を目指して日給300円の生活に転進

 会社を辞めてから、私は差し当たって何をするかという深い考えは持ってはいなかった。唐突に写真家になろうと思った。それまでに写真に関する素養があったわけではない。自分のカメラさえ持っていなかった。だから、周囲の人間は驚いた。驚くのが当然だと思う。血迷ったと思った人もいるようだ。

 なんとも荒っぽい選択の仕方だったが、私にとって選択の対象はそれほど重要ではなかった。何か真剣になれる可能性があるものであれば、何でも良かったのである。写真という対象は、私の不確かな存在感を解消するには、適当な素材であるかのように考えたのだった。

 会社を辞めてから、飛び込みに近い形で渋谷にある写真館に雇ってもらい、夜間写真学校に通い始めた。69年秋のことである。見習いとしての身分だから、1日300円という薄給だった。20年前の物価水準からしても、1日300円で暮らすことは容易ではなかった。しかし私は、経済面の不安定さと引き換えに、精神面での落着きを手に入れようとあがいていた。写真の才能があろうがなかろうが、そんなことは気にもとめなかった。

 生存していくための、最低ギリギリの収入でなんとか生活をやりくりしていたが、当時まだ学生だった妻は、私の生活を見かねて、彼女が卒業したらすぐに一緒になることを提案した程である。二人の収入を合わせて生活すれば、やっていけるというのが理由だった。そうして、彼女が私より1年後に卒業して間もなく、結婚に対する甘い夢とは無縁な形で、私たちの家庭生活はスタートしたのだった。

 それでも、学生時代に行ったことのある清里にある協会で、式を挙げたのだから、それなりの格好はつけたのである。6月の高原のさわやかな風と、色とりどりの花に囲まれて式を挙げたことは、立派な式場で式を挙げるよりも、自分たちにとっては良かったことだと今でも感じている清里も今とは違って、観光化されておらず、閑静な山里で二人の生活のスタートの場所としては、申し分の無いところだった。

 さて、写真の腕前のほうはどうだったかというと、これがまあまあだったのである。昼間写真スタジオで実習をやっていたのだから、学校で学ぶ初歩的な技術程度のことは、そう難しいことではなかった。

 70年の途中から、報道写真の前身を持った商業写真のスタジオに移って、暗室技術などかなり実践的にやっていたため、写真学校で2年間履修することの価値が感じられず、学費を払うことも難しくなったので、私は2年目の前期で学校をやめた。やめて、自分の作品を撮ることに決めた。

 写真のテーマとしては、原爆の間接的な被爆体験を通して、私は写真によって戦争問題に触れたかった。戦場へ出かけていって、生々しい銃弾の跡や流血の場面を撮るのではなく、もっと異なった方法で戦争をとらえたいという気持ちがあった。

 終戦後25年たった頃で、経済発展は上昇カーブを描き続け、戦争体験は風化したとか、『戦争を知らない子どもたち』などという言葉が語られたり、歌われたりすることに対して、私は自分なりに戦争問題を考えてみたかったのである。

 放射能の人体実験の渦中にある私としては、戦争問題は風化させてはならないという意識があったし、戦後派世代にとっても、戦争が無縁のことではありえないという考えを強く持っていた。

 戦争問題を考えるために、私はサイパン島に取材に行くことを決めた。当時サイパンには、破壊された戦車や砲台がまだ残っており、戦争の爪痕が具体的な形として残っていた。私は戦争の傷跡を映像で示し、合わせて当時の島民の生活を写し撮ることによって、日本人が忘れ去ろうとしているものを喚起しようと考えた。島民にとっては、戦争はいまだ過去のものとはなっておらず、島民たちの払った犠牲に目を向けることなく、日本人だけが物質の繁栄の恩恵に浴していることは、恥ずかしいことだった。

 また、個人的には、自分が戦争問題を深く考えるきっかけを与えた原爆がテニアン島に貯蔵され、そこから原爆を搭載したB29が広島と長崎に飛び立ったと言うことで、私は旧貯蔵庫の前に立ってみたいという思いがあった。

 私は、主として妻の収入から貯金していたお金を持って、身重の妻を残して一人でサイパンへ行った。72年1月のことである。1ヶ月ちょっと、地元民の離れの小屋に居候して写真を撮った。サイパンに滞在しているとき、近くのグアム等で横井庄一氏が発見されるという事件があった。その出来事は戦争が決して遠い過去の出来事ではないということを、改めて思い知らせることとなった。また、連合赤軍のリンチ殺人事件や浅間山荘事件などが相次いで同じ時期に起こり、時代は激動を続けていることを物語っていた。

 撮ってきた写真は7月に銀座のニコンサロンで個展という形で発表するチャンスに恵まれた。写真を初めて3年目のことだ。最初は、ニコンサロンで個展をやることは夢のようなことだったが、夢は意外に早く実現した。

 ニコンサロンと言うところは、審査をパスすれば無料で会場を貸してくれる上に、案内状なども印刷してくれる。一流と言われる、錚々たる写真家たちが、そこで写真展を開いている。そんな場所で、まったく無名の若者が個展を開くチャンスを得ると言うことは、才能や力を保証されたような気がしたものだ。

 個展は大阪でも開くことになったが、個展を開いたからといって、変化があるわけではなかった。自分の期待だけが、いつも先行していた。そんな頃にオイルショックが起こった。写真材料などの急激な高騰は、私が写真で身を立てようという意欲とは無縁に生活レベルで写真を放棄せざるを得ないような状況に立ち至った。

 72年の夏、大阪での個展の最中、希望通りに8月9日の原爆記念日に長男の宏洋がうまれたのだが、その結果、妻は仕事を辞めて育児に専念していたことも、私の写真への執着を断ち切らなければならない事態に陥らせた。

 写真家の卵は孵化することなく卵のままで終わることになったのだったが、私にはさほど挫折感はなかった。熱中する対象を求めて、熱意を十分に注げたことは幸福であったと思うことができた。

 撮影してきたフィルムを現像したり、焼き付けたりする作業は楽しい事だった。暗室に閉じこもって作業をしていると、10時間がほんの1,2時間にしか感じられないほどに、凝縮した時間の体験をすることができた。そのことは、写真家としての才能や技術、成功・不成功を超えて、写真を選択したことを肯定することができた。その時の時間の体験は、写真とは全然縁の無い生活をしている今でも、貴重な宝物として私の心の中に残っているほどである。

 

田舎暮らしに憧れて植木職人に

 宏洋が生まれてから、妻が仕事を辞めていたので、家計は破綻に近かった。写真スタジオを辞めてからの2年間ほどはアルバイトをしながら写真を撮ったりしていたが、明日の食料をどうしようかという日が何日もあった。

渋谷のアパートの前を通る屋台のチャルメラの音を聞きながら、「来年は、あの屋台の中華そばを食べることができるように頑張ろう。そして、その次の年にはステーキを食べられるようになろう」などと冗談を言い合ったりしていたこともある。その辺りを考えてみると、貧乏生活が私たちの精神状態までを貧しくしてしまうということはなかったようだ。

 結婚してから1度も経済的に楽だったことはなかったが、人の出入りは多かった。もっとも苦しい時期にさえ、1週間誰も来ないということはなかった。来客が重なると、狭いアパートに10人くらいになることもあった。

 誰か来ると言うことは、食事を一緒にするということを意味していた。食事をしないで客を帰すことも、私たち夫婦は好まなかった。食事を共にすることは、私たちの大きな楽しみであった。不意に尋ねてきた友人のために、出来上がったカレーに慌てて水を足して、量を調整するというようなこともあった。

 73年には、年収がたしか20万円ほどしかなかった。都営のアパートで家賃は安かったが、20万円で家族3人が生き延びることはさすがに無理だった。その時には、20万円ほど借金をしてしまったことを覚えている。その年は、だから約40万円で1年間生活したことになる。

 友人たちは、私たちがそれほど逼迫した状態でいたということはわからなかったという。あまりつらそうな顔をしていなかったらしい。貧乏生活=不幸という図式は、私たちには当てはまらず、夫婦の間でお金がないからとってもめたことはなかった。だから、その後も貧乏とは極めて親しく付き合って生活していくことになったのだろう。

 写真を見限った(写真に見限られた?)私は、植木職人になることを決めた。植木ばさみを持って木に登り、手入れをする植木職人に、である。サラリーマンから写真家になると言い出しただけでも、充分に唐突だったのに、植木職人はさらに唐突だと思われたに違いない。大学時代の仲間の中には、あまりの脈絡のない行動に、頭がおかしくなったのではないかと思った者もいたようだ。

 植木をやりたかったのは、東京生活から逃れたかったからである。都会の喧噪に疲れ、いつか豊かな自然に囲まれて、畑を耕しながら生活をしたいという夢を写真を続けながら心の中で抱き続けていた。子どもの頃にあれほど嫌っていた畑作業をやりたいという気持ちが強くなっていたのであった。自分で畑を起こし、作物を栽培し、それを食するという行為はすばらしいという思いを持つにさえ至っていた。

 田舎暮らしをするには、植木職人をやることがいいと考えた。どんな田舎に行こうとも、植木の手入れ仕事はありつくことができるのではないかという算段だった。自分の行動を正当化する理屈としては、破壊されていく自然環境を保護するために、造園という仕事は何らかのつながりがあるとも考えていた。

 また、嫌っていた農作業や、肉体労働につこうとしたのは、父親に対する仕返しの面もあったのじゃないかと考えられないでもなかった。親の期待を超えて、大学へ行ったことは父親にとっては誇らしいことであっただろう。だから、3年間楽ではない生活の中から仕送りを続けた。

 私が彼に対して深い恨みを抱き続けたことも知らず、彼は私が社会的な地位を上っていくことを期待していたと思う。だから、私は、彼の期待する方向とは、まったく逆の方向に自分の針路を取ろうとしていたのかもしれない。

 父が母親に、あるとき、「植木屋をやるんだったら、大学へ行かせることはなかった」とこぼしたと言うことを聞いたとき、私は「ザマミロー」という気持ちでいた。私は、両親に対して、一度も反抗的な言動を示したことはなかったが、期待に背くという形で反抗を示したのかもしれなかった。

 田舎暮らしをする前に、私は東京で造園会社に勤めた。自分で進んでやり始めた仕事にもかかわらず、初めて地下足袋を履いて、スコップを手にして植木堀をしたときには、豆だらけになった手のひらを見つめて、一応一流とされる大学を卒業していた身としては、自分の人生設計を誤りつつあるのかなと、もの哀しい気分を味わったものである。

 だが仕事を続けるうちに、肉体労働にはそれなりのさわやかさがあって、仕事自体が好きになり、私の弱気はどこかへ消え去った。地下足袋を履きハンテンを着て、都心の電車にのって帰宅することも、恥ずかしいとは思わなくなるようになった。腕を磨くことに熱中し、寝ている間も刈り込みばさみで植木を刈る仕草をしたりして、隣で寝ている妻を大分驚かせることもあったようである。

 植木職人として、初めて給料をもらったときには、あまりの大金(そう思えた)に小躍りして、妻と二人で笑い合ったものだ。

写真をやっている間、着るものも買えなかったので、何から買おうかと迷ったりもした。

「ステーキを食べよう」というスローガンが実現されることはなかったが、不足していた物をかなり補う事ができた。

 

紀伊長島の植木職人に病院建設の誘いがかかって

 植木職人として働いている間に、田舎暮らしの計画は進めていた。候補地としては、気候が温暖で、公害とは無縁、海が近いという条件を備えている場所を考えていた。地図の上では、伊勢志摩付近が最有力の候補地であった。

 候補地探しをしている頃、NHKで早朝放映している『明るい農村』という番組で、富山県から三重県の紀伊長島町というところに移住した長井さんという人を紹介した。

 私たちがイメージしていた場所の条件を兼ね備えているようなところだったので、早速NHKに問い合わせて、長井さんの住所を聞き、直接連絡を取った。何度かの文通をした後、私たちは、長井さんに75年の夏に会いに行った。

 私たちは、海の青さと、透明に澄み切った川の美しさに魅せられて、長井さんに会うときには、もうすっかり紀伊長島に移り住むことを決めていた。

 永井さんも、私たちが本気で移住する気があるのならば協力してくれるということになり、住む家と、私を雇ってくれる造園会社を当たってみることを約束してくれた。

 やがて希望通りに山奥の農家の廃屋が借りられ、私の仕事先も秋には決まり、秋と冬に夫婦が交代で下準備に行って、76年の正月が明けてからすぐに渋谷のど真ん中から、昼でも薄暗い木々のトンネルを抜けて行かなくてはならない山奥の廃屋に転居した。私29歳、妻28歳、宏洋3歳であった。

 紀伊長島町は、尾鷲市の東部約40キロメートルに位置し、熊野灘に面する人口1万5000人ほどの、漁業と林業の町である。大台山脈が海に迫り、平地もあまりないような土地である。私たちが住むようになった場所は、町の中心部から山を縫って更に15キロほど入ったところである。バス停の終点から、木々に覆われた道路を30分ほどは歩いていかなくてはならなかった。周囲には5、6軒の家が点在しているだけで、それより奥には人家がないというような場所であった。

 廃屋となっていた農家を、月々5000円で借りた。家の前の農地は荒れ果てており、ススキが生い茂っていた。自分で耕す気持ちがあれば、自由に使って良いという約束だった。

 移り住んだ時には、廃屋は相当傷んでおり、天井の隙間からは星が見えたりした。南国とはいえ、真冬に星を見上げながら寝るのは、風流といえるほどの雅趣はなかった。東京育ちで田舎生活を知らない妻は、めったなことでは物事に動じないという性格をしているにもかかわらず、その時にはいささか弱気になって、そこで生活を続けることに尻込みを覚えたようである。

 しかし、家を修理してからしばらくすると、薪で炊く五右衛門風呂や離れにあるトイレに行くことも慣れて、生活にもリズムができた。宏洋は渋谷のコンクリートだらけの町中で育っていたが、カルチャーショックもなく、移り住むとまもなく、畑の中を駆け回り、一月もしないうちにほっぺたが真っ赤になり、都会育ちのイメージはまったくなくなってしまった。

 電気こそ通っていたものの、飲料水は谷向こうの沢からホースを引いて取っていた。汚す者が住んでいないのだから、水は清涼そのものであった。紀州特有の大雨の後には砂が大量に混じり、料理には都合が悪かった。

 自給自足を目指した野菜作りは、経験不足と仕事のせいもあって、思うようには成果が上がらなかったが、それでも春になると食卓を賑わす程度の収穫を上げるようになった。

 おかずが足りないと、家主が裏山で栽培している椎茸を採ってきて食べたり、わらびなどの山菜は、飽きるほど食べることができた。秋には収穫目前のサツマイモを、猪に全て食べ尽くされたり、目の前を鹿が横切って歩いて行ったり、山の中で猿が鳴き声を上げたりと、望んでいた自然を満喫することができた。引っ越しをした年の夏には、東京から代わる代わる人がやってきて、さながら民宿の様相を呈したものである。

 下の子つぼみは、山奥に住んで1年ちょっと経った3月に生まれた。他人の世話にならずに、夫婦二人だけで育児に関われたことは、貴重な体験であった。宏洋の時も、最初の1週間は妻の実家で世話になったものの、それ以外は、二人だけで育児をやっていたので、つぼみの場合も、あまり苦にならずにやり通せた。

 その山奥での生活も1年半で終わることになった。つぼみが生まれた紀伊長島町の病院長である平岡医師との出会いがあったからだ。平岡医師の自宅と病院の庭仕事が、つぼみがそこで忌まれたという縁で依頼があったのだが、植木職人として出入りをしていた私に、平岡医師は彼が企画していた病院建設に関わることを誘いかけたのである。

 植木職人の私に声をかけたのだから、当然私は営繕関係の仕事をすることを依頼されたのだと思い、最初は断った。ところが、病院建設のプロジェクトチームの一員として関わってほしいというのであった。よく知りもしない人間に、しかも植木職人に建設のための経営スタッフになれと話を持ちかけた。変わった人物に興味を惹かれ、彼の眼力に自分を委ねてみることにしたのだった。

 山奥の生活は楽しいものであったが、人との関係が希薄であった。私は隠遁生活をしようとして山奥に移り住んだ気持ちはなかった。他者との交流関係を広げることは常に頭にあった。だが、山奥には交流関係を広げるほどの人の数はいなかったし、人を巻き込むだけの力はなかった。

 私たちは、絶えず人を待つという姿勢になっていた。誰かから手紙が来ることや、遊びに来てくれることばかりを待っていた。そんな気持ちで生活を続けることのマイナス面も感じ始めていた。父親が、山奥に移住してから1年たたない頃に死んだことも、山奥での生活に執着させる気持ちを弱めてもいたような気がする。

 以上のような理由が相まって、平岡医師の誘いは私が、山の中から出て、再び町中で暮らす決心をさせることになったのだった。

 

軌道に乗った病院経営生活にあきたらず37歳で留学に

 1年半の山奥での生活は、短すぎるような気がしないでもなかったが、結果的にはちょうどいいくらいの期間だったと思う。

 病院の建設予定地は、同じ三重県内の鈴鹿市にあった。用地だけが確保してあったところへ、77年の8月に先発要員として移った。誰一人知る人もいない土地で複雑な手続きを必要とする病院建設に関わることは、精神的な負担も多かった。近辺の住民の日照権や、漁業組合との排水問題などの様々な障害があり、それらのことにたいてい一人で対処しなくてはならなかった。病院完成に至る間の経験は、私を相当鍛えてくれたように思っている。

 鉄筋5階建ての病院は、いろんな障害を乗り越えて79年4月に開院にこぎつけた。開院してから、実に多くの役割を演じなくてはならなかった。100人に上る職員の給与計算から、ゴミの処理まで仕事の幅は広かった。病院でトラブルが発生する度に、真夜中でも呼び出されて、おっとり刀でかけつけることもたびたびあった。開院当初は、私なしでは病院が動いていかないという面もあったので、多忙を極めたにもかかわらず、やりがいはあったといえる。しかし、病院を開院して2年も経つと、経営もそれなりに軌道に乗って、仕事の内容も決まってきた。経営が安定すると共に、私の精神は不安定になっていくのだった。毎日の決まりきった仕事に耐えることは、私にはつらいことだった。経済的には、もっとも安定していたのだが、時間を経るにつれて落ち着かない気分は強くなっていくばかりであった。

 私には、無風状態の生活は似つかわしくなかった。私は、新たに熱中する対象が必要になってきていた。その頃には、激しい変化に満ちた生活じゃないと満足ができない人間になっていた。大学時代の私は、仲間に石橋を叩いても渡らないような奴だといわれるような、慎重居士だった。それが、朽ちかけた吊り橋でさえ、安全を確かめずに渡ろうとする無謀な人間にと変わっていたのだった。

 私の心の中のコンパスは、再び荒海へ向けて、その針を刺し始めた。生活に困らない経済的な安定と、病院という限定された社会での約束された将来は、私を縛り付けるほどの力とはなりえなかった。

 自分が恵まれた子ども時代を過ごしていなかったという思いは、子どもたちの問題につねに関心を向けさせてもいた。病院で仕事をしながら、貯金をして再び山奥に入り、土地を手に入れて、恵まれない子どもたちを預かるような仕事をすることを考え始めていた。紀伊長島の山奥は、一坪5000円程度で買えるということを聞いたので、500坪ほど手に入れることは、その時点では大して難しい事ではなかった。

 その夢を変更することになったのは、アメリカ人の宣教師と出会ってからのことである。モルモン教の布教を目的に私の家をボブが訪ねてきたのは、病院建設準備中の頃である。モルモン教を信じる気持ちはなかったが、周囲に誰も知り合いのなかった私たちは、ボブを歓迎した。ボブも他の宣教師も、私が英語を操りアメリカのロック音楽が好きだという事で、話をすることを楽しみにして、たびたび訪ねてくるようになっていた。彼らは、やがて私の家族に対しては、モルモン教の布教をすることもなく、友人として付き合えるようになっていた。

 そのボブは、病院が完成する前に帰国した。が、病院ができた頃に再び来日した。その時は、宣教師としてではなく英語学校の講師としてである。結婚したばかりの妻ヘザーが一緒だった。その夫婦が二人とも、来日してすぐに肺炎で倒れた。その時、私は私が働いていた病院に入院させ、金銭的な余裕のない彼らに便宜を図った。そのことを通じて私たちはさらに親交を深め、その後には長男を出産するなどということもあった。

 親しく付き合うウチに、私が病院の仕事に飽き足らず、青少年問題に関心を持っている事を話し、自分が子どもたちを預かる仕事をしたいと考えていることなども伝えた。ただ、山の中で子どもたちを預かっても、非常に限られた数の子どもたちしか関わることができないというジレンマも話した。

 ボブは、アメリカにはスクールソーシャルワークという分野があることを教えてくれた。学校の中にソーシャルワーカーがいて、子どもたちの抱える問題解決のために援助をしてくれるというのだ。私は、大いに興味を抱いたものの、自分がアメリカに行って、それを勉強するなどと言うことは、当初考えもしなかった。

 すでに30歳半ばに達していたし、大学時代には全然勉強もしないような不真面目な学生だったから、留学して勉強するなどということは、別世界のことだった。留学というならば、自分の子どもたちにはそういう機会を与えることができればという程度に考えていた。

 しかしアメリカ人はそんな風に考えない。「お前は、まだ若い。アメリカ人は30過ぎても、大学で勉強する。スクールソーシャルワークに興味があるなら、ぜひチャレンジをしてみろ」と勧めるのだった。しかも「お前は大学を4年終わっているのだから、大学院に願書を出すべきだ」とまで焚きつけるのだった。

 留学ということ自体が夢のようなことなのに、大学院を目指せというのだから、私にはまったく縁遠い話だった。TOEFLという英語のテストをクリアするだけでも大変な事だった。躊躇する私にボブとヘザーは、粘り強くトライするよう説得し続けた。英語のテストに関しては、二人ができるだけ手伝うというのだった。

 病院で仕事を続けることに安住できないという気持ちのまま過ごすよりは、気分を紛らわせる意味で、私は一応TOEFLを受けることにした。TOEFLのテストの内容を最初見たときは、私は自分が点数をクリアできる可能性を信じる事ができず、いったんは留学の夢を絶ちきったのだが、それにしても一生病院の事務職として自分を納める気持ちにはなれないため、萎える気持ちを取り直してTOEFLのための勉強を始めた。

 本腰を入れて勉強に取り組んでみると、これが意外と楽しかったのである。練習問題をこなすことが面白く、仕事から帰ってきても退屈さはなくなった。わからないところはボブとヘザーが住んでいるアパートに行って尋ねたりした。

 勉強を始めてから3ヶ月ほど経ってから、名古屋まで行ってTOEFLを受けた。結果については自信が無かった。しかし、ボブとヘザーは、私が必要な点数を取っていることを疑わなかった。結果は、二人の予測通りであった。30半ば過ぎたオッサンが、突然始めた勉強で、ある程度の点数を取ったのだから、自分でも驚いてしまった。

 TOEFLは、英語以外の外国語を母国語とする人たちの英語力を測るテストである。留学するには避けては通れないテストである。大学によって要求する点数は若干違いはあるが、英語の授業を理解できる程度の英語力があると言うことを証明するには、相当の点数を取らなくてはならない。TOEFL受験のための予備校があったり、TOEFLの点数をクリアするために留学する者もいるほどである。とにかく、私の点数は大体の大学院で要求している点数には足りていた。

 願書を出す大学は、ボブとヘザー、そして二人を通じて知り合った数人の友人たちの出身地であるユタ州にした。幸いにソルトレーク市には、ソーシャルワークの修士課程のあるユタ大学があった。ボブやヘザーだけでなく、それまで4家族のユタ出身の友人たちがいて、そのいずれも私たちが渡米する前に帰国し、アパートや家財道具の手配をしておくという話になった。まだ大学に願書を出す前の段階で、既にそこまで決まっていた。

 82年の秋の終わりに出した願書は受理され、翌年早々、合格通知が届いた。83年の9月に渡米することが、私の予期に反して実現することになってしまった。

 アメリカ留学の話は、またまた周囲を驚かせた。私の決意聞いた段階で、私を責める人も何人かいた。家族を犠牲にするのはいい加減にしろという声が多かった。中には、私の腰の定まらない生き方に愛想づかしをして、去って行った友人たちもいた。転職を、それも脈絡のない転職を繰り返してばかりいたのだから、あきれ果てる人がいてもおかしくないと思う。

 私の迷走ぶりを評して、チャンネル精神だと表現した人がいた。何か気に入らないことがあるとテレビのチャンネルを回すみたいに仕事を変えるというのである。その評を聞いて私は不快になるよりも、なかなかうまい表現の仕方だと感心したものである

 だが、私の生き方を非難する人ばかりではなかった。それより応援してくれる友人たちの方が多かったといえる。私の雇用主の平岡医師も、私が病院を辞めることを惜しみはしたが、私のチャレンジ精神を評価してくれ、留学を我がことのように喜んでくれた。

 いくら無謀な私でも家族や周囲の人間全てが反対するようなことは、しないだけの分別はあるつもりだった。それどころか、私は周囲の人たちとの関係の中で、その関係によって動かされているという思いを持っていた。

 アメリカ留学は、私だけの夢ではなく、私と関わりを持つ人たちの夢でもあったのだと考えている。私は全員の夢を代行したに過ぎないのだった。

 37歳のオジさんの留学であった。学問とは無縁の人間の留学であった。マイホーム資金をすべてつぎ込んでの留学であった。帰国してからの生活には、何の保障もない留学であった、思慮の浅い、危険に満ちた留学であった。

 

アメリカでスクールソーシャルワークを学んで帰国したが・・・

 アメリカでの生活について細かく記すことは、別の機会に譲らなくてはならない。書くことが多すぎる。ただ、私は柔軟性に欠けるおのが頭脳をふりしぼりながら、オール英語での勉強にもやっとの思いでついていくことができたし、現場での自習もやり通すことができた。

 私は、日本の大学では勉強もせず、怠惰な学生であったが、中年になってからの異国での勉強は苦しかったが同時に楽しく、勤勉な学生であり続けた。学んだことの多くを記憶に留めておくことができないのは残念だが、自分が悔いなく勉強したという充実感だけは、確実に持ち帰った。

 アメリカで数年ぶりの極貧生活に戻って、再び貧乏とは仲良く付き合った。お金を工面するために、頭をあれこれ悩ませたりもしたが、いくつかの幸運にも恵まれたこともあり、借金を作ることもなく、家族4人がどうにか、無事に二年間の生活を過ごすことができた。

 さらなる勉強に熱意を燃やしていた私は、博士課程に進むことを決心しコロラド州デンバー大学の入学許可を得ていたが、どうしても金策がつかず勉強を諦めざるを得ないということもあった、2年間の生活では物足りず、家族の誰も日本に戻ることを希望しないまま85年9月に帰国することとなった。仕事も何も決まらないままの、相変わらずのいい加減な行動パターンであった、またもや、<ひんしゅく>を買うことは、自明であった。

 私たちは、帰国してから小田原市に住むことを決めた。小田原に住まなければならない理由は特になかった。小田原に住んでみたかったのである、ただ、それだけの理由だった。チャンネルをもう一つ回したと言うこと、か。

 三重県で暮らしている頃、上京する度に小田原を通り過ぎ、その辺の風景が気に入っていたのだった。だから、一度は小田原に住んでみたかったのだ。思ったら、実行するという身の軽さが私の心情である。帰国後すぐに、アパートを見つけてそこに住んだ。風祭という素敵な名称を持つ場所だった。

 小田原では、無職の日々が三ヶ月ほど続いた。オジさんを雇ってくれるような職場は、なかなかないものだ。

 我が家の二人の子どもたちは学校へ通い、日本での生活への再適応化へ向けて行動を開始していた。子どもたちを送り出した後、妻と二人で海を見下ろす丘に登り、黄色く色づいたミカンを1、2個失敬して口に含んだり、ドライフラワーにするために野の花を摘んだりと、呑気な生活ぶりだった。

 似たような局面は、もう何度も切り抜けてきたし、アメリカで経験した難局に比べれば、自国での困難は切り抜けられないはずがないという開き直りがあった、

 日本を発つ前に、いくらか貯金を残しておいた。そのお金は、アパートの礼金や敷金、家財道具を買うために、あっという間に消えてしまった。その時には、さすがに借金をした。どちらかの親に借金を頼むことは、成り行き上できないことだった。だから、恥を忍んで友人に借りた。自分勝手な生活をすると、さんざん非難されてきていたが、借金をしたのは、その時と写真をやっていた時の二度だけだから、それほど他人様に悪しざまに言われることもなかったのじゃないかなと思っている。

 85年の12月になってやっと、私は横浜にある予備校の英語の講師としての職を得た。小田原から横浜まで通うことになったのだった。自分がアメリカまで行って勉強したことが、仕事に結びつかないという悲しさはあったが、とりあえずは生き延びるメドは立ったのだった。

 アメリカで用いた英語と受験英語とのギャップに驚きつつも、予備校勤めを自らの仕事として引き受ける覚悟を決めかけている頃、所沢の武藤さんが、所沢市の教育長が会いたがっていると言う連絡をくれた。

 武藤さんは、私がユタ大学の修士論文『日本の学校制度におけるスクールソーシャルワークの可能性』を書くときに、所沢市の教育委員会にかけあって、市内の学校関係者の意識調査の協力を取り付けてくれ、アンケートの収集をやってくれた友人である。

 当時の鈴木教育長は、私の論文に興味を抱き、所沢で実験的にスクールソーシャルワークを実践してみることを考え、武藤さんに打診したのであった。条件は、かなり厳しかった。嘱託料が12万円ちょっとで、交通費も健康保険も何もつかないけど、やる気があればチャンを与えるということだった。

 私は、経済的な条件を考えて行動できるような人間ではない。やりたいことは、後先を考えずにやってしまう。妻も、私のそんな生活を責めたりするような人間ではない。いつでも、行動しながら、二人して考えるというタイプであるだから、当然のように所沢へ移ることを了承した。

 ただ一つ困ったことは、私を雇ってくれた予備校をすぐに辞めなくてはならなかったということである。12月に雇用され、2月には所沢からの話があり、4月からスクールソーシャルワークの実践活動をするということになったのだから、わずか4ヶ月しか働かないことになるのだ。

 私は、職種も職場も、何度も変わったが、辞める時にはできるだけ円満に退社するように努めてきた(なかには、そうとはいえない辞め方をしたところもあったが・・・)。だから、わずか4ヶ月で退社することは、非常にまずい辞め方で雇い主の感情を害することになると思った。だからといって、スクールソーシャルワークを実現するチャンスを逃すことはできなかった。うまくすると日本の学校制度に風穴を開けることができるかもしれないのである。私は感情を害することを覚悟して、退社を申し出た。

 ところがである。予備校の責任者は、私が短期間で辞めることを快く受け入れてくれた。そればかりか私の少ない収入を聞いて、所沢での契約時間外に予備校で英語を教えることまでを申し出てくれた。私はただただ、感謝するしか術を知らなかった。自分勝手な行動は、他人の親切に会うと信念が揺るがせられるし、自分を卑小に感じさせるものである。

 私の活動が広がるとともに、予備校での仕事はやめざるをえなくなったが、このときに示された行為は、決して忘れられないものである。

 所沢での活動は、86年の4月からスタートした。スクールソーシャルワークを標榜しての活動は、日本では初めてということだったので、記者会見などをして華々しいスタートだった。表向きの派手さとは裏腹に、経済的な保障もなく、契約も半年ごとの短期で、もちろん制度としての位置づけもないという、ないないづくしの船出であり、相当な波乱含みの内容であった。武藤さん夫妻以外には誰一人、知る人もいない四面楚歌の環境へ単身(とはいっても、家族ともどもであるが)乗り込んだのであった。

 私が、迷走生活の経歴を持っていなかったとしたら、所沢の話には乗らなかったかもしれない。何かメリットがあるとすればスクールソーシャルワークの真似事ができるということぐらいである。それも、明確なビジョンのない状況で、である。

 世の中には、冷静に計算をできない人間が存在することも必要なのだと思う。そういう人間が、物事の前後を考えずに行動することによって初めて、何かが動き出すことがあるのだと思っている。常識的には、40歳になった人間がアメリカの大学院を出て、思春期に入ろうとする子ども二人を抱えて、12万円そこそこの賃金だけで職業を選択するものではないだろう。だからこそ、そんな人間が一人ぐらいいても良かろうという気持ちがあった。

 

「迷走人生、出会いがあって、捨てたもんじゃない」

 子どもたちの養育をどうするかって?どうにかなるに決まっているのである。親が一方的に庇護すべき対象として子どもの養育を考えるのではなく、子どもたちとの共同作業として養育を考えていくことである。置かれている状況の中で、二人の子どもにとって最善の道を、お互いに模索することである。子どもたちの生きていく可能性だけは、私の選択によって、狭めはしないということだけが、私の養育ということに関する思いであった。だから、子供たちが私の生き方によって、自分たちの人生が犠牲にされているという思いだけは抱かないように努めたいと思っている。それができていれば、生活上の細かい部分での不足は、我慢してもらうしかないのである。

物質的な満足には、際限がないのだから、どこに限界を設定するかは、その家族家族によって違いがあるのは当然である。ま、我が家は我が家の方針にしたがって、養育を考えていくしかないのである。

老後の安定はどうかというと、そんなことは考えても仕方がないと思っている。老後のことを考えて、現在の生き方に制約を与えることは、私はしたくない。老後というものがあるとすれば、それは現在の生き方の結果であろう。現在の生き方を犠牲にして、充実した老後などあろうはずがない。先のことを考えるより、現在を精一杯生きることだと思う。

こんな考え方をしていて、将来野垂れ死にをするようなことがあるとすれば、私はそれでいいと思っている、真剣に生きる人間が無残な死に方をするような世の中は、世の中が間違っていると思うことにしている。安楽椅子に座って死をただひたすら待つような人生が、幸福な老後だというのなら、私はそんなものは必要としない。できれば、死ぬ直前まで、生きることと奮闘していたいものである。

自分が用済みになったら、妻と二人で海に身を投げて死にたいという夢を持っているのだが、こちらのほうが妻の拒絶にあっているので、今のところは実現する可能性がきわめて薄い。とにかく命の炎が燃え尽きるまでは、生きていくだけである。計算された人生が面白いとは限らない。出たとこ勝負で、その瞬間瞬間を精一杯生きていくことが私の性に合っているのだから、自分に正直に生きていこうと考えている。

貧乏生活とは、ずっと仲良しだ。これからもずっと親しく付き合っていくつもりでいる。お金がなくても、心豊かに生きていくことができるということは、今の時代の風潮に対しては、強烈な皮肉になりうると考えている。だから、しなやかに生き抜いてやろうと思っている。私は、できることなら、生きることのスペシャリストになりたい。軽やかに、能天気に、今の人生を生き抜いていきたいものである。

私の迷走人生の過程で出会った写真や、植木職は嫌いでやめたわけではなかった。けっこう気に入った状態のままやめた。だが、それらの仕事をしているときには、それが自分の一生の仕事だという思いは抱くことができなかった。絶えず、自分には、まだ出会っていない仕事があると考えていた。だからチャンネルが簡単にかえられたのだろう。

現在従事しているスクールソーシャルワークという仕事に関しては、私は違和感を持っていない。できれば長い間しがみついていたいと考えている。40歳にしてやっと、自分の求めていた仕事に出会ったという感覚がある。世間一般的には遅すぎる出会いかもしれない。だが、自分では遅すぎたとは思っていない。出会ったときこそが、一番いいタイミングなのだと思うことにしている。

日本の学校制度の中にはスクールソーシャルワークを導入するという目標は、あまりにも遠大でハードルが高すぎるような気がする。しかし、だからこそ、挑戦のしがいもある。相手が大きすぎるがゆえに、ちっとやそっとのことでは飽きも来ないであろう。当分はチャンネルはスクールソーシャルワークに固定したままになりそうな気配である。

だからといって、迷走は終わったわけではなく、現在の活動の中で、繰り返されていくことだろう。私は、下手に落ち着いてしまうことを自分に禁じたいと思っている。常に、歌でも口ずさみながら軽やかに、しかもしぶとく活動を続けていきたいものである。

 迷走の過程では、私はずいぶん否定的な見方をされてきたように書いたが、実際は私を白い目で見る人の力より、私を見守り支えてくれた人たちの励ましの力の方が強かった。自分の行動は、自分だけのエネルギーによって回転してきたのではなく、周囲の人たちの支援の集積に結果なのである。

 自分が彷徨してきた、その時その場所で、いつも出会いがあった。そして、いつもその出会った人たちによって生かされてきた。ここでは触れる余裕もない、実に多くの人たちとすてきな出会いを繰り返してきた。その点からだけ見ても、私は迷走人生は捨てたものじゃないと思っている。

 スクールソーシャルワークに私が至ったのも、周囲の人たちとの行動作業の結果であると考えている。目標に到達するかどうかは、これまで出会った人たちと、これから出会うであろう人たちとの交流によって決定されるだろう。

いい出会いを重ねて、私は自分のネットワークを広げ、強め、柔軟にする作業を怠らないようにしたいと考えている。